「簾恥」について


はじめに


 「簾恥」とは心が清らかで恥を知る心である。
「恥」とは、@恥じること、A名誉を汚されること、B恥ずべきことを知ること、名誉を重んずることであると、大辞苑に記されている。
「恥じらい」、「恥を知ること」は日本人の伝統的な美徳とされてきた。
また、「恥の意識」が日本人の道徳性を支えてきたと云われる。


「武士道」に述べる「恥」と「名誉」

 新渡戸稲造著述の「武士道」では、『恥の感覚(廉恥心)は、青少年の教育で大事に育てるべき最初の徳の一つであった。「笑われるぞ」、「名が汚れるぞ」、「恥ずかしくないのか」といった句は非行青少年の行動を正すための最後の訴えであった。』 また、『羞恥の感覚は、人類の道徳的自覚の最も早き兆候である』と述べ、さらに、『恥はすべての徳、良き風儀ならびに善き道徳の土壌である。』と述べている。
即ち、武士道の中心には「名誉」があった、この「名誉」というのは、少年の頃から身体に叩き込まれるべき最初の徳であるということである。

儒教における「恥」と「名誉」と「道徳」

 孔子は「論語」で、恥が悪から善に向かわせる内面的な動力であると説き、恥の観念は、道徳や礼儀によって養われる内面的な倫理意識であるとしている。
孟子は、恥は人間の本能的な道徳感覚であり、若しこれをそのまま発展させれば義となって実を結ぶと説いている。
 儒教が中国の正統思想として公認されるようになると、この廉恥の徳は儒教中心道徳とされ、儒教を「廉恥の教え」と呼ぶようになった。
「恥と名誉は互いに表裏をなしている。名誉を失うことが恥じであり、不名誉はそのまま恥じである」と説いている。

「恥」について

 「恥」には「公恥」と「私恥」の二つの意味が含まれる。
一つは「他人の目」による恥―「公恥」と、他は「己の魂の目」、「自分で自分を恥じる」といったような内面化された恥―「私恥」である。
道徳を考えた場合に、常に他人の目が前提とされる、あるいは他人との関係の中で生ずる公恥の概念を道徳的規準とし、私恥は、己の矜持、あるいは己の理想とする姿に照らして恥を知るものである。
ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」で日本の文化を「恥の文化」と見做して述べているが、日本人の持つ内面化された恥の考察は不十分である。


むすび

 「廉恥」は「名誉」と表裏の関係にあり、戦前の日本人の道徳性を支えた最高の徳目の一つであり、青少年の教育で大事に育てるべき最初の徳の一つであった。
戦前の修身教科書では、第四学年で「人の名誉を重んぜよ」の項目を立てて教えていた。
戦後、教育勅語に変る国民の道徳の基本を「国民実践要領」として示したが撤回された。
この中で個人が守るべきの徳目の一つに「廉恥」を挙げていた。

 その後、「恥」の規準を支えた伝統的な地域社会が崩壊し、心理―社会環境大きく変化した現在においても、「廉恥」は一部の高校・大学等の建学の精神、校訓の中の守るべき「徳目」としてかかげているように、青少年から大人までが心の底に規範化すべき大切な徳目である。