「カラコルム・ハイウェイ」を往く
                                        仲崎 浜吉



◎ 「旅の始まる前に」


パキスタンに行くと言うと「危ないんじゃない?」とか「何しに行くの?」という質問をよく受けた。
確かに、「危ないな!」とは思っていたが、それにも増して、私は行きたかった。

その理由の1つは、私のシルクロード紀行を完成させたかったこと。「カラコルム・ハイウェイ」は、中国の僧法顕が西暦340年頃、インドのガンダーラ地方にある仏教の中心地に、戒律を求めて命がけで辿った難所中の難所であり、私のシルクロード旅行の空白部分でもあったからだ。 
もう1つの理由は、「桃源郷フンザ」が今も健在かどうか確かめたいとの思いだった。

この旅を計画してから、3年が経った。

2010年1月には、上部フンザで発生した地滑りにより堰き止め湖が誕生し、いつ、水が引くのかと待っていたが、6月には雪解け水の流入が増え、全長21km、深さ100mを越す湖となってしまい、申し込んでいた秘境旅行の専門社「西遊旅行」から、キャンセルを通知された。
2011年には、リベンジをしようと思っていたが、5月にアボッタバードで、ウサマ・ビン・ラディンがアメリカ軍によって殺害され、旅行中止を余儀なくされた。
そして今年の春には、ギルギットで、日本人旅行者の足止め事案もあり、外務省の危険情報では「渡航の是非を検討してください」などと書かれており、一抹の不安もあった。

しかし、クンジュラブ峠(4733m)を超える旅を延期できない年齢になってきていることもあり、もう、「行くっきゃない!」との思いで、行ってみることにした。

     ◎ 「旅の始めに」  
     
◎ 第2日   ガンダーラの仏教遺跡を訪ねて
     
◎ 第3・4日 母なる川インダスを遡る
     ◎ 第5・6日 フンザはやっぱり桃源郷だった
     ◎ 第7・8日 クンジュラブ峠をめざして
     ◎ 第9・10・11日目 タシュクルガン・カシュガルそして東京へ
     ◎ 「旅の終わりに」


◎ 「旅の始まり」


旅はラッキーなスタートを切った。 
「草原の椅子」という映画のロケ隊一行が、私たちと同じ飛行機でフンザ・スカルドゥに長期ロケに出発するというニュースがあり、憧れの吉瀬美智子さんや、ついでに佐藤浩一さんに会えるかも知れないと思っていた。
それが、何たる幸運、ロケ隊も西遊旅行がサポートしており、バッチリ同じ飛行機、同じホテルでスタートするということになった。
また、若い添乗員さんも2年前にフンザ行きがキャンセルになった時に、添乗員として同行する予定だったと話をされ、何やら、旅の成功が確信された。

パキスタン航空のエアバスA310は、富士山の見送りを受けて、北京経由イスラマバードに現地時間の午前1時に到着した。 ターミナル付近に立っていた吉瀬さんの姿を近くから見ると、細っそりスラリでオーラが差しているようだった。


◎ 第2日 ガンダーラの仏教遺跡を訪ねて

03:50 どこかからアザーンが聞こえてきて、イスラムの地に戻ってきたという感じがした。
朝食後、我々は、スカルドゥに向かう撮影隊の一行と別れ、イスラマバードからアジアハイウェイを通って、ガンダーラの東南に位置するタキシラに向かった。 タキシラ一帯は世界遺産に登録されており、酷暑を予想していたが、モンスーン第2波という恵みの雨により、過ごし良い旅を始めた。

パキスタンは正式には「パキスタン・イスラム共和国」といい、人口は約1億8千万人、国土は日本の約2倍、イスラム教徒は90%で、エネルギーも食糧も自給できるなかなかの国らしい。

ジョーリアンの仏教遺跡

まず最初にジョーリアンの仏教遺跡を見たが、2世紀頃、カニシカ王の下で大いに栄え、こんな仏教の学校が500もあったそうだ。
法顕は隆盛時にこの地に来たが、その後、5世紀頃、フン族が侵入して破壊されてしまい、玄奘三蔵がこの地を通過した7世紀ごろには、もう廃墟になっていたようだ。 
遺跡の入り口の所に2人の少年がいた。 シャルワーズ・カミーズという服を着ているが、パキスタンでは、洋服よりも、この服の方が一般的なようだ。


都城址シルカップ

次に、ギリシャの都市プランをモデルにしたという、都城址シルカップを見に行った。 なぜか、そこでは、吉瀬さんに負けない位の美女がバイオリンを弾いていました。


タキシラ博物館

その後、タキシラ博物館でギリシャの影響の残った仏教彫刻などを見た。
本当はガンダーラ美術の代表作「苦行をしている釈迦」の像を見たかったのですが、ラホール博物館に収蔵されているとのことで、今回はあきらめた。資料ですが、どうぞ。


何かのご縁でしょうか? ここ、タキシラ博物館でも、先ほどシルカップでバイオリンを弾いていた美女に会った。 実は、テレビの音楽番組の人らしいです。 あわせて、博物館にやってきた家族にも写真を撮らせてもらった。


博物館の前を鈴なりの人を乗せたバスが通っていた。 この国では小型タクシーをスズキと呼び、中型のハイエースの大きさの乗合自動車をハイエースと呼び、車の中にいる人も、車の外にへばりついている人も料金は同じだそうです。
車は圧倒的に中古の日本車が多く、ドバイ経由で入ってくるそうです。


アボッタバード

タキシラの遺跡見学を終え、午後はべシャムまで移動したが、途中、あのウサマ・ビン・ラディンがアメリカ軍によって殺害されたアボッタバードを通過した。
アボッタバードは軍学校や部隊が駐屯する軍都で、教育レベルもトップクラスの町です。
下の写真の街角から2kmほど入ったところで襲撃されたようです。
緊迫した雰囲気は何もなく、ラマダンが終わったら何を食べようかと買い物をする人達で賑わっていた。
また、パキスタンの小型・中型車は、ほとんどCNG(天然ガス)車で、空気も汚さないし、安いし、燃費もいいようです。


アボッタバードで果物を買った。 日本にも輸入され始めたようですが、パキスタンのマンゴーは、世界一おいしくて、癖がなく、しかも、1コ30円くらいです。


マントラの町

更に走ると、野菜や果物の生産地として有名なマントラの町に差し掛かる。 このあたりでは、滅多に女性を見かけず、買い物も男がしている。
だんだん高地の方に進んでいくと、2005年の地震で大被害を受けて、自衛隊からも救難に行った地区に入る。


インダス川との合流

更に進むとバラグラム川がインダス川と合流するポイントに来た。
川の左はヒマラヤ山脈、右はヒンズークシ山脈で、これからはヒンズークシ山脈に沿ってインダス川を遡ることになる。

「カラコルム・ハイウェイ」は「中巴友誼路」とも呼ばれ、アボッタバード近郊からカシュガルまで890km、この工事のほとんどの資金と技術指導を中国が行い、パキスタンは一部の工区を担当したほか、現場の作業を担当した。
「カラコルム・ハイウェイ」は、20年の歳月とパキスタン人800名、中国人80名の犠牲を乗り越え、1978年に一応の完成をしたが、まだまだ、高速道路ではなく、高い所を走るという意味での「ハイウェイ」だった。

しかし、数年前から拡幅・舗装の突貫工事が行われており、あと5年もすれば高速幹線道路を意味する「ハイウェイ」になりそうだ。 


さて、車は今日1日、280kmを走ってベシャムに到着した。
今夜の宿は、PTDS Motel Besham。 PTDSは公的な施設で、昨日までストライキをしていたとか、電気も暗く、すぐに停電し、シャワーも満足に使えない状態で、もう一工夫ほしいところですね。

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