百済王朝ゆかりの地を巡る旅
2014年3月10日〜15日


ある日、友人から「百済王朝ゆかりの地を巡る旅」に行かないかという話があって、喜んで参加してきました。
旅のメンバーは私を除いては百済や古代山城について優れた知識を持った人達で、行楽地は訪れず、ひたすら百済の王都とそれを守る山城と、唐・新羅の連合軍と日本軍が海戦を行った白村江の候補地を巡ってきました。
お隣の韓国について殆ど何も知らなかった私ですが、旅を通じてほんの少しは分かってきました。
いい報告ができるかどうか心配ですが報告させていただきます。

全般的な位置関係


 さて、旅に出る前に時代背景について少し整理しておきましょう。

朝鮮半島の時代概況

 朝鮮半島では3〜4世紀から7世紀にかけて三国(高句麗・百済・新羅)と伽耶諸国の間で抗争が繰りかえされ、6世紀には新羅が大躍進して領土を拡大しました。
しかし、7世紀に入って状況は変わり、高句麗・新羅・百済が更に隋・唐を加えて目まぐるしく覇権を競うようになりました。
倭国(日本)もこの動きと無関係ではおれず、以前から親交の深かった百済を支援する立場をとりましたが、これが白村江の戦いの大敗北へと繋がりました。

百済王朝の時代区分
・ 前期−漢城(現在のソウル)時代 (346年〜475年)
  近肖古王が即位して以来、高句麗と係争しながら王国を維持してきたが、475年に高句麗の攻撃を受け、
  熊津(現在の公州)に遷都した。
・ 中期−熊津(現在の公州)時代  (475年〜523年)
  文周王、東城王、武寧王、聖明王が統治し、高句麗や北魏からの攻撃を新羅の救済を受けて防いだ。
・ 後期−泗?(現在の扶余)時代  (538年〜660年)
  聖明王が泗?に遷都し、威徳王、武王、義慈王が統治するが、660年、唐・新羅連合軍に滅ぼされる。
  義慈王は妻子とともに長安に送られ、その地で病死した。

百済王朝の滅亡以降
・ 660年、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた後も鬼室福信らは百済復興軍を起し、泗?城(扶余)の奪還
  を試みた。 鬼室福信らは、人質として倭国に滞留していた余豊璋(義慈王の王子)の帰国と、倭国の軍
  事支援を求めた。
・ 663年、百済復興の支援に向った倭国の海軍が白村江で唐・新羅連合軍に大敗。余豊璋は高句麗に逃亡し、
  百済は滅亡した。
・ この後、唐・新羅の連合軍が高句麗を滅ぼし、一時、唐が支配をしたが、その後、新羅が唐の支配を破って
  約250年間、半島を支配した。   

日本と百済の関係
・ 503年、百済武寧王が倭国に遣使し、また538年には百済から仏教が伝来した。
・ 645年、大化の改新。中大兄皇子と中臣鎌足らが、蘇我一族を滅ぼした。
・ 660年、百済は唐・新羅連合軍に敗北し滅亡した。
  百済の滅亡後、鬼室福信らの要請に基づいて斉明天皇・中大兄皇子は陸上・海上の兵力を派遣して、
  百済復興を支援することとした。 斉明天皇は九州で崩御し、中大兄皇子がその後の指揮を執った。
・ 663年、百済救援に向った倭国の水軍が、白村江で唐・新羅連合軍に大敗。
・ 天智天皇(中大兄皇子が即位)は唐・新羅の日本侵攻に備えるために、壱岐・対馬及び九州の大宰府周辺
  から、瀬戸内海沿いに奈良の都まで山城を築き、更に大津京に遷都した。

白村江・周留城はどこ?
・ 今回の旅では百済の王都とそれを守る山城及び白村江を現地で確認することがテーマであった。
・ 白村江の候補に挙がっているのは、西海岸の錦江河口付近(忠清南道)、牙山湾付近(忠清南道)、東津江
  河口付近(全羅北道)等である。
・ 周留城は、百済復興軍の拠点とされているが、白村江との関係からいろいろな山城が候補案になっている。

第1日目(晴)は羽田からソウルへ、そして一路、扶余へ。
今回のツアーではソウルの初期百済王朝の史跡はパスをして、中期百済王朝以降の史跡を研修しました。

扶余の史跡
扶余は白馬江沿いにある百済の都・泗?と同じで、今も多くの人が住んでおり、百済の首都として世界遺産に登録することを目指して、遺跡の修復が精力的に行われていました。
王都のすぐ傍には陵山里寺や、羅城(王都を防衛する城壁)、王陵の発掘が行われていました。


扶蘇山城
扶余(泗?)の王都を守る山城で、山頂付近には貯蔵庫跡があり、長期戦も出来る構造になっています。


更に山城を進んで行くと、百花亭に出ました。百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされた時、官女達が百花亭の前の岩から白馬江に飛び込んで亡くなったそうです。山城から下りると、王宮跡に出ました。

   


第2日目、扶余から長谷面山城、任存城へ、そして牙山湾へ。
扶余国立博物館

 
博物館には、百済金剛大香炉の実物(国宝)など、貴重な出土品などが陳列されていました。

 

また、聖明王(聖王)の像が飾られていました。聖明王は武寧王の子で百済の第26代の王で、日本書紀などによると、538年、倭国に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、仏教経典などを伝えたそうです。

恩山別神祭・長谷面山城
任存城への移動の途中、鬼室福信を祭った鬼山別神祭に立ち寄りました。


鬼室福信は、660年、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた後も抵抗運動を続けました。663年6月、余豊璋が倭国から帰国後、鬼室福信ともに戦ってきましたが、福信の謀反を疑って、福信の首を斬らせたそうです。
次に、忠清南道洪城郡にある長谷面山城を訪れました。地元の人はここが周留城だと主張しています。

任存城(忠清南道礼山郡・鳳首山城)
任存城は鳳首山の頂上を石の城壁で囲んだ大規模な山城で、この城では663年、周留城陥落後、百済王余豊璋らが最後まで戦いましたが、ついに陥落し、百済復興運動は完全に終息しました。
任存城は山側からの侵攻には強固な石垣で、また海側(牙山湾)からの侵攻にはきびしい斜面と石垣で防ぐ構造になっていて、現地を歩いてみると結構時間がかかりました。


牙山湾
その後、北に向かって牙山湾まで移動しました。牙山湾沖が白村江だという説がありますが、牙山湾は日本から遠いだけでなく、昔から今日に至るまで、中国の山東半島との海上交通が盛んで、唐の水軍の勢力範囲の真っ只中に日本の水軍が突っ込んで行くとは考えられないというのが大勢を占めました。

第3日目、雨模様ですが、忠晴南道の世宗から公州、論山を経て群山まで旅をしました。

雲住山城
朝一番、忠晴南道・世宗特別自治市にある雲住山城を研修しました。雲住山城の西門は立派に修復されていました。山城は公園になっており、城内はハイキングコースになっていました。この雲住山城は余豊璋や鬼室福信、道?将軍が戦った山城の一つです。麓にある高山寺には百済国義慈大王慰魂碑がありました。


公州城

更に南に進んで公州城に到着しました。公州は475年〜523年の間、百済王朝中期の都だった熊津そのもので、今も大きな都市です。 公州城は660年には唐・新羅軍の攻撃を迎え撃った山城でもあります。
城内には、往時を偲ばせる宮殿の跡などもありますが、いかにも攻めにくい山城という感じがしました。




百済軍事博物館(論山)

午後は、論山の百済軍事博物館を訪問しました。ビデオや人形などで歴史を分かりやすくする工夫がなされていました。同じ敷地の中に百済最後の闘いの勇将「階伯(ケベク)将軍」の墓がありました。


江景(忠清南道論山郡)と加林山城(聖興山城)

錦江中流にある江景は錦江を航行する船団の動きを発見するのに適した高台で、ここにはのろし台がありました。


加林山城は扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にあり、難攻不落の城として有名です。


遅くなって群山に到着しました。ここは錦江が海に至る河口でこの辺りが白村江だと言われています。



第4日目、白山(金堤市)、古沙扶里、開厳寺、禹金山城を経て辺山半島の格浦へ

白山(全羅北道・金堤市)

海岸の群山を出発して、白山(ペクサン)に行きました。この辺りは、農業が盛んな土地で、碧骨堤も見えます。白山は日清戦争の引き金になった東学党の乱(甲午農民戦争)の中心地だった所です。


古阜(全羅北道・井邑市)と古沙夫理城
古阜に到着しました。ここは、ちょうど小学校のある所に李氏朝鮮王朝の官庁があった所で、昔は多くの人がいたようですが、今では田舎の村のような感じです。
この小学校の裏山に古沙夫理城があるはずですが、登り口が分かりにくく、役場の人に案内をお願いして山へ登りました。古沙夫理城は修復作業の真最中でした。 古沙夫理城も百済の重要な山城だったようで、基礎部分に百済様式の石垣が残っていました。



開岩寺(開厳寺・全羅北道)と禹金山城(位金岩山城)

開岩寺は、634年百済時代に創建された寺で、寺の奥にある山で百済再興運動を繰り広げられました。
韓国土産で人気のある「竹塩」はこのお寺で昔から作られていたものだそうです。
禹金(ウキン)山城(位金岩山城)は、開岩寺の裏山にある山城で、周留城の候補地です。右の基台の上に余豊璋の屋敷があったと言われています。



第5日目、格浦、扶安から碧骨堤の発掘現場、全州、益山を研修し、その後、ソウルへ
格浦海岸

格浦(カクポ)・悼Y(チュルポ)湾の沖が白村江の候補地の一つで、全羅北道 扶安郡の辺山半島国立公園内にあり、海岸の突端には、海の神を祭る竹幕堂があり、軍隊の監視所もあるそうです。


扶安の亀岩里支石墓・碧骨堤

扶安の亀岩里支石墓は3世紀以前のものらしいですが、村の有力者のお墓として巨石を積んだようです。 


碧骨堤(ピョッコルチェ・全羅北道・金堤市)は330年頃に建設された貯水池で、堤防は3kmほどあります。水門付近の発掘現場を見せていただきましたが、版築方式で幾層にも突き固めたもので、底辺部分には「しきそだ」という葦や草を敷いて、強くしているそうです。大阪の狭山池の堤防(7世紀前半に築造された)も同じ構造になっており、百済(あるいは馬韓)の技術が伝えられたとのことでした。


益山は百済の王都?
益山は弥勒寺、王宮跡、帝釈寺等の発掘により貴重な遺物が発見され、百済の王都であったと考えられるようになったとのことで、復元工事や博物館の整備などが精力的に行われています。
弥勒寺は600年頃百済の武王が建立した壮大なスケールのお寺で、九重の石塔(東塔)は壊れていたけれど残存していたそうです。西塔は修復中で、金堂の礎石部分が広がっており、木造の九重の塔もあったそうです。 弥勒寺石塔の礎石の部分から金の壺が出てきました。その中には仏舎利が入っていました。


王宮里
王宮里も益山にあり、弥勒寺から5kmほど南にあり、壮大な規模で感嘆しました。五重塔(石塔)は傾いていたけれど残存していたそうです。塔の基壇部から金製の舎利函が出てきたそうで、金の靴や兜や木棺なども発掘され、展示されていました。木棺には日本のコウヤマキが用いられているそうです。


益山での研修を終えて、ソウルに戻り、ツアー参加者一同で韓国料理とお酒で研修の総括を行いました。
翌日、大いなる成果と共に、金浦空港をたって、羽田空港に帰りました。


韓国旅行こぼれ話

韓国の高層住宅・自動車・お墓

田空港から2時間でソウル金浦空港に到着。
金浦空港上空や着陸後、バスの車窓から見るソウルの街は、高層住宅が林立して思わず「すごい!バブルじゃないのかな?」と、うなりました。聞いてみると韓国では地震が無いそうで高層住宅の林立もありうるのかなと納得しました。
ところで、韓国では新車がたくさん走っていますが、日本車は1台も見かけません。関税が100%かかり、部品代もべらぼうに高いため、ほとんどがHyundai、KIA等の韓国車です。


韓国は土葬が認められており、ソウルから郊外に出ると日当たりが良く、お墓参りをしやすい丘には至る所、道端に土まんじゅうが見受けられました。


韓国料理とお酒

旅行中はいつも全員で韓国料理を楽しみました。
ボリュームたっぷりのタラの鍋料理、豪快な鶏のぶつ切り鍋タットリタンや、海辺の格浦では名物の渡り蟹などが入った海鮮鍋、また、公州では日本の懐石料理のような上品な食事などを楽しみました。「食は全州にあり」といわれる全州はビビンバ発祥の地だそうで、ここでは、本場のビビンバをいただきました。
また、お酒と言えばジンロなどの焼酎の他、マッコリも有名ですが、意外と清酒がいけました。女性の好みに合わせてアルコール度数は低めになっているそうです。


韓国の温泉事情
2日目には長谷面山城や任存城を歩き回り、くたくたになった後、温陽のホテル天然温泉につかって、足つぼマッサージをしてもらって疲れを癒しました。
韓国に天然温泉は殆んどありませんが、温陽は李氏朝鮮の王家御用達の貴重な温泉地だそうです。
ちなみに韓国の人は、夜の風呂より朝風呂の方が好きだそうです。


旅の終わりに

すっかり忘れていましたが、かの地では反日の片鱗にも接することはありませんでした。
百済の歴史が刻まれた土地を歩くと、多くの場所で百済ゆかりの王都や山城の修復が進められており、今でも多くの人たちが百済を愛しているのだなと感じた旅でした。